「今はまだ十分じゃないけれど、可能性を信じて頑張ろう!」
「合格する可能性はまだある!」
「自分の可能性を信じたいんです」
素敵な言葉です。本当にそう思います。
しかし、「可能性」という言葉を甘く見ている人があまりにも多すぎる。「わんちゃん、何とかなる」「0%じゃないんだから」といったように。
例えば私が「明日までに1兆円欲しいんだよね」と言ったらどう思いますか?
「そんなの無理だよ。」と思うだろうし、無理です。(そりゃあ、0点00000数%は可能性があるのかも知れない。)さらに、なんで1兆円欲しいんだろう?そのためにこの人は何かしてきたのかな?といった疑問も湧くと思います。
これと同じです。
生徒さんから「〇〇高校or〇〇大学に行きたいんです!」と言われても、冗談なしに「不可能」と言わざるを得ないレベル感の時が少なくありません。
もちろん、数年の浪人を覚悟なら可能かもしれませんが、現役か1,2年の浪人までしか許容できないケースがほとんどの中、現実的とは言えません。
どうしてその学校なんだろう?そのために今まで何をしてきたの?と質問しても、十分な返答がないことが多いです。
「不可能だよ」「無理だよ」という言葉を投げかけることで、「その人の可能性を制限している」「芽を摘んでいる」と捉える方もいるかも知れません。一時期有名になった「ビリギャル」みたいなケースもあるのではないかと。
もちろん、先ほどの例のように今の状態から具体的にどのようにしてどれくらい時間をかければ現実となり得るのかを伝えはします。
しかし、「君にも可能性がある」と無責任に可能性を感じさせることの方が、私は残酷に感じます。
長年、教育に携わっていると、目の前の生徒さんの現状からどのレベルまで成績が伸びるのかは想像がつきます。これはほとんどの先生と言われる人たちに共通しているのではないかと思います。何となく分かってしまうのです。
数百人、数千人に1人レベルの成長を期待し、「君にも可能性がある」と伝えるのか。
それとも、今のレベル感から考えられる選択肢を提示するのか。
前者を行うことは同時に、“数%の可能性”の実現ができなかった人たちを生み出そうとしていることだと私は捉えます。
教育者なら、「可能性」という言葉で無責任な希望を抱かせるのではなく、「何を」「どれだけの時間」「どのように」やれば実現されるのか、確率が最大化されるのかを伝えるべきではないかと思うのです。
余談みたいな感じですが、森見登美彦氏(私の好きな小説家さん)の小説「四畳半神話体系」の中に可能性という言葉について好きなセリフがあります。
樋口師匠「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」
「君はバニーガールになれるか?パイロットになれるか?大工になれるか?七つの海を股にかける海賊になれるか?ルーブル美術館の所蔵品を狙う世紀の大怪盗になれるか?スーパーコンピューターの開発者になれるか?」

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